知らなんだ、言うても、もう遅かろなぁ、
有名な話でっせ、
桜がホレ、あんな風にぎょうさん咲いちょったら、
近寄らん方がええ。
――――うつくしモンには近づくな――――
て、コレ昔からの言い伝えですえ。
うつくしもんに、囲まれて
狂うのも、この人となら、
と。
思ってしまうのだから、仕方がない。
だがきっと、狂えないであろうことも分かっているのだ。
この中に、綺麗なものは一つしかないのだから。
「――――何を、考えてる?」
さあ、と答えた口は塞がれて、殴られた。
口に広がる血の味に、切れた、と呑気に考えていると髪を引っ張られ、あっという間に上あごを舌で撫でられる。
「…血の味がする」
―――ああ、この人は狂ってしまったのかもしれない。
恐怖が襲ってきたのもつかの間、うっかりと見惚れてしまった。
―――狂うのなら、一緒に狂えれば良かった。
そしたらこの人に、こんなにも孤独を味わわせることもなかった。
「…桜の下には、なんてよく言ったもんだ…満開の桜に囲まれた狂気という話もそうだが」
まるで自嘲するように、そういうその人の腰を。
うっかり抱きしめてしまったのは、桜が満開だからか。
狂う前兆ならば、甘受するものを。
「そんな見せかけの美に、俺様が酔うとでも思ったのか、お前」
クッ、と。
そんな、今から人でも殺しそうな目で。
自分を見つめる、その人は。
「お前が、俺以外に見惚れるのが、許せなかっただけだ」
―――そして殺そうと思ったのだろうか。
自分が、この目の前の人以外に酔ったならば、その時はと。
「だが、これは狂ったわけじゃねえ――――」
「お前に、その意味が、分かるか ?」
―――それを行動に移すのが、今だったということだけだ。
よもや、こんな満開の桜に酔ったわけではない。
すきあらばいつでも。
ただ今は。
この満開の桜が、お前の心を連れ去って行きそうで。
「跡部!樺地!どこにおるん!?」
「おーい!!!跡部ー!?」
「クソッ…桜が邪魔で、見えやしねえ…!!!」
「というより宍戸さん、なんかここ………怖く、ない、ですか」
―――ああ、
迎えか。
「…戻る、か?」
どこに戻る。
「何」に戻る。
お前は、俺という「狂気」をつれて。
さて、どこに。
「…跡部、さん」
見かけの美しさも、あなたには。
全て通用しないのだから。
「―――戻る、ならば」
この桜の美しさなど、欺瞞だというに違いない。
そして自分もおそらくそう言うのだ。
この世で美しいものなど、ただ一とつしかないと。
ああ、ただそれでも。
「俺を、殺しますか」
あなたが、それを望むなら。
「―――なんだ?妖気にでも中てられたか?」
この桜の。
それならば―――
「…殺そうか」
お前が中てられたのだから、仕方ない。
お前が、俺以外に、酔ったというのだから。
+ + +
「あ、とべ…!」
「樺地も…」
「――――って…ほんっきで心配したんだからな、この激、大馬鹿野郎が!!!!!!!!」
「……うるせえ、キャンキャン吠えるな、宍戸」
跡部はそう言うと、旅館の女将に愛想のいい笑顔で軽く会釈をし、未だ何事か騒ぐ部員たちをおいて部屋へと急いだ。
「全く…自分でゆうてた集合時間も守らんと、よく3年間部長が務まったと思うわ!京都は迷子になりやすいてゆうてたからさがしてやったんに…」
「大体、全国大会の打ち上げで京都行こうっつったの、跡部だよなー…」
忍足と向日は未だ何事か文句を言いながら、まだ煮え切らぬ様子でそれでも自分たちの部屋へと入って行った。
宍戸はまだ何事か、近所迷惑―――いやその前に旅客迷惑―――なほど大音量でなにごとか叫んでいたが、榊に窘められ、さらに長身の後輩にまあまあ、と言われながら部屋へと連れ込まれていた。
榊は跡部に何事か囁いて、そして去って行った。面倒なのは、おそらく明日の朝である。
滝や日吉、そして芥川の姿がないのは、おそらくもう就寝しているということか。
面倒な事にはかかわらない組、そしてただ単に眠いだけの男、まさか跡部達を待っているはずがなかったのである。
「…ったく、いつまでも喧しい奴らだ。」
そうため息をつきながらも、どこかそのなかに安堵が含まれているのを、樺地は確実に読み取った。
と、樺地が部屋を開けて跡部が入ろうとしたところで、通りがかりの仲居が跡部を呼び止める。
「お客はん、すんまへん。桜の花びらついとりますえ?」
そう言って仲居が丁重に跡部の肩を払うと、ふわりと桜の花びらが、跡部の肩から真っ赤な絨毯へと落ちて行った。
「…ああ、ありがとうございます」
跡部はその桜を、なんとはなしにじっとみて、ふいと目をそらした。
と、仲居は何を思ったか、おそるおそるといった様子で跡部の顔をのぞきこむ。
「へえ…あの、失礼どすけどお客はん、もしかして裏の土手の桜園に行かれはったんどすか?」
ぴく、と跡部の体が揺れ、目がゆっりと仲居に向かう。
「…ええ。今が盛りなんですね、大変綺麗でした」
もしかしたら跡部は、話を早く切り上げたくて、いつもは言わぬ一言を、付け足したのかもしれなかった。
だがその跡部の返事に、仲居はいかにも驚いた、という様子で口を手で覆う。
「お客はん、綺麗なんてそんなもんとちゃいます!夜にあないなところに行かはるなんて、正気とは思えまへん。あそこは、魑魅魍魎の世界と繋がってるとも噂の桜園ですえ。」
魑魅魍魎。と跡部は頭の中で繰り返した。
なるほど美しさに酔う様子―――それは人の様子なのだろうか―――を、そう例えたのだろうか。
「さあ…それは見ませんでしたが、美しいものに囲まれると少々たじろぎますね…見事でした。」
あくまで他人行儀な跡部の返答をどう思ったのだろうか。
彼女は、はぁ、と空気を揺らして跡部の言葉にこう応えた。
「お客はん、昔の話にもありますけど、満開の桜に囲まれたら、気が狂うて話や」
「けれどそれは、何もうつくしモンに囲まれての事とはちゃいます」彼女は続けていう。
「―――うちの桜には、妖気が宿っとるんどす…それも、一本一本に。あないに大量の桜に囲まれたら、ぎょうさん溢れとる妖気で、何しでかすか分からなくなるんどすえ。―――現に、」
つい、と雪白のような白く細い指が、廊下の窓から見える裏の桜園を指した。
「なんの光を当てへんでも、仄白く光っとるやろ…?」
指に沿って跡部と樺地が視線を移すと、大量の桜が、まるで何かが匂い立つかのように白い光に包まれているように見えた。
なるほど。 それはどちらの考えだったか。
妖気ならば、納得もいくだろう。
「…へえ、なんかコイツの様子がおかしいと思ったら、そのせいだったんですね。」
「もう、お客はん、信じてへんやろ!」
「いえ、そんなことは。」
そう、そんなことはない。
けれど、自分は殺さなかった。
コイツは、「正気」で言ったのだ。
(「俺を、殺しますか」)
それは、この感情自体が狂気だったことをさすのだろうか。
それとも己か、コイツのどちらかが狂ったのだろうか。
それとも、二人ともか。
(それでも、この狂気なら今更の事。)
「もうええどす。それより、これからは夜に入りはったらあきまへんよ!」
「ええ、『おしまいやす』」
「あれこの人、京ことば喋りなはるわ―――へえ、おしまいやす。」
フ、と軽く笑った跡部を合図に、樺地は彼女に会釈をしてドアを閉めた。
「狂気」が「狂気」を引き連れていったのだ。
「狂気」の世界に、それは効かなかったのかもしれない。
+ + +
――――ドアを閉めた音と同時に、突然廊下から人の気配が消えた。
残ったのは、赤い絨毯に散る、二枚の桜の花びらだけである。
|終|